粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

奇癖

当代の現役噺家で贔屓にしているのが、柳家喬太郎である。

マクラや新作の語り口の軽妙さもいいし、古典もきっちり聴かせる力量に唸らされる。

 

現在ではあまりネタに上がらなくなった古典演目を高座にかけるということもやっている人で、そのなかに「擬宝珠」という演目がある。

「ぎぼし」と読み、寺社仏閣などの柱の上に取り付けられている金属製の飾りのことだそうだ。

この噺、金属製のモノを舐めることに異常なまでに執着する若旦那が、しまいには寺の塔にまで登り、擬宝珠を舐め尽くすという珍妙な話なのだが、変態の与太話と切り捨てることなかれ。

 

たとえば匙。

この、スプーンを舐めたときに感得する金属の味覚、といえばいいのか、あるいは触覚、といえばいいのか、とにかくこの感覚にえもいわれぬ快感を覚える若旦那のような嗜好をもつ人は、案外と多いと聞く。

 

噺のほうは、血筋か遺伝か、じつは両親までその性癖があるとわかり、結局、若旦那のかねてからの願望である、浅草寺にある五重塔のてっぺんにある擬宝珠の青白い部分を思う存分舐めたいという夢を叶えてやりたいと後押しすることになる顛末なのだが、この例でなくとも、人間の味覚だか触覚だかは、人それぞれ千差万別、特異な感性を示すことがあるようだ。

 

味覚のほうはなかなかに、ここで語るのがむずかしいので、珍妙な触覚持ちの例でいうならば、友人のなかに、毛布の感触がたまらなく好きで、夏でもかけて寝ているという人がいた。

ほかにも、散髪したての丸刈り頭皮を触るのが好きでたまらないという友人がいて、また男性のヒゲ剃り後のうっすらと毛根が立つ肌をさわさわするのも好きだという。

この友人は女性だが、みずからをショートヘアにして、すそを少々刈り上げて、自分で自分のそこをよくいじっていた。

 

このての嗜好というか、性癖というかは、だれしもみずから覚えがあるのではないだろうか。

 

それを恥ずかしく感じる人も多いかと思うが、べつに他人に迷惑をかけるわけでもなし、好き好きやればいいたぐいのものである。

もちろん、人に誇るものでもなし、あからさまに人にしゃべるものでもないのだが。

もっとも、この噺の若旦那のように、江戸中のあちこちの橋の擬宝珠を舐めてまわるようなことはやめたほうがいい。

 

ところで、じつは小生にも、このての奇癖がある。

ハンカチや衣服などの布を折りたたんだときにできるカドのとがった部分をさわさわしていると、妙に落ち着くのだ。

 

とがっているのに、やわらかい。

この感触がいい。

 

無意識にやっているときもあるようで、人から指摘されたこともある。

じつは、それを指摘した人が同好の奇癖仲間だと知って、おもいがけない出会いに恵まれたこともあった。

奇癖がつうじる邂逅など、金輪際ありえなそうな出来事ではないか。

これも呑み屋の友人であるが、だからといって連れ立ってさわさわしているわけではない(やっていたら、やばい)。

 

思うに、人間には五感というものがあって、それぞれにそれを追究している人たちがいるわけだが、触覚の追究者とは、どういう人たちなんだろうか。

視覚ならば画家や写真家など、聴覚なら音楽家、嗅覚なら調香師やタバコやコーヒーのブレンダーなど、味覚なら料理人などが思い浮かぶ。

だが触覚の場合、どのような人がそれにあたるのだろうか、などと、愚にもつかないことを今日も考えている。