粗忽長屋で蒟蒻問答

無駄な方便、無用の用、脳味噌を棚卸する、そんな雑草咄しと落語と書見

【読書】漫然と考えていることを何気なくあぶり出してくれることばたち ──『知の百家言』(中村雄二郎)

モワッと感じているツカミどころのない考えが、あらわれては消え、流れ去ってはぶり返す、といったことが誰しもあるかもしれません。

こういったとらえどころのない想念はどこかタチの悪い印象を残すもので、こころのなかに澱のようにわずかに積もり、瑣末ではあるが得心のいかないモヤモヤとして意識のはたらきを停滞させたりもするわけです。

この想念の曇り空を晴らしてくれるのが"気づき"ということになるのでしょうか。

気づきは、だれかのちょっとしたひとことでふいにおとずれたり、自分がとらわれている思念の外側や、あるいは自分の足もとに、もしくはその事柄とはまったく関係のないシチュエーションなどに案外と転がっていたりするものです。

そして、そんな気づきのきっかけとなるおこないのひとつが「読書」ではないでしょうか。

あることばとの出会いが、そんな想念の霧を晴らすことがある。

世に格言・金言というものがありますが、これらはどこか遠い存在に感じられる偉人や賢人といった人たちの博物館に陳列されているようなことば、というわけではありません。

それらの至言が仮に凡人の三歩先をいった思索に裏打ちされたものであったとしても、発想の素の部分はわれわれとなんらかわりない地平から考え始めているものです。

つまり同じ場所に立って考えている。

だから彼らのことばたちはけっしてむずかしいものではない。

そして、そのことばは、それまで自分独りで漫然と考えていた白紙のうちに、自身の考え(灰汁)をなにげなくあぶり出してくれるロウソクの灯火となってくれたりもするわけです。

そんな有用な本のひとつとして、中村雄二郎『知の百家言』(講談社学術文庫、2012年)を紹介します。

 

◾️ 出版社案内文

古今東西の「人類の英知」から厳選された哲学の言葉を、〈好奇心〉〈ドラマ〉〈リズム〉に溢れるエッセーで熟読玩味する。

有史以来、フィロソフィー(知を愛すること)は人類とともにあった。先人たちの「知を愛する」営為の結晶である言葉を選び出し、その含蓄を引き出して、紹介する。〈教養〉としての哲学ではなく、激動の時代を生き抜くために、生きることに渇きを感じる強烈な好奇心に、思い考えること=生きることと直結するような「哲学」を提示する珠玉のエッセー集。

「人々が時の流れのあまりに速やかなことに罪を着せて、時の逃れ去るのを嘆くのは、見当違いだ」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

「自然科学においても、探究の対象はもはや自然自体ではなく、人間に問いかけられた自然である」(ハイゼンベルク)

「幸福であるとは、なんのおそれもなしに自己を眺めうる、ということである」(ベンヤミン)

「われわれの憎むものが否定されたり、他の禍(わざわい)を被ったりするのを想像して生じるよろこびは、必ず心の悲しみを伴っている」(スピノザ)

※本書は、1999年に朝日新聞社から刊行された『人類知抄 百家言』を文庫化にあたり改題したものです

 

◾️ 読みどころ私見

本のジャンルのなかに「格言本・金言本」というものがある。

古今東西、偉人・賢人のことばの断片を編纂した、いわゆる雑学的な本といえる。

忙しい現代人、ビジネス・パーソンにしてみれば、元ネタになる本をじっくり腰を落ち着けて読む時間もないだろうから、さわりだけでも知っておきたいという人に好まれるジャンルということになるのだろう。

教養を身に付けたいという前向きな人びと御用達のジャンルということになるのだろうが、このての本を知識を仕入れるだけの情報源として取り扱うのは少々もったいないように思える。

個人的にはわりと有用な使い道もあると思っていて、たとえばこれらの本の背表紙が目に入ったときにでもふと手に取って、本全体にパラパラと目を通すことで、そこに並ぶさまざまなことばから現在の自分自身の志向や懸念、考えていることや感じていることの引っかかりをヒョイっと摘みあげるのにちょうどよいと思うのだ。

あたまのなかに散在する茫洋とした思念、そのときどきの自分のマインドを点描できるとでもいえようか。

なんとなく考えていたことの尻尾を掴む、ちょっとした糸口になる本ということである。

このての本は必要があって求めるというよりは、なにげなしに手にとるような本といえるかもしれない。

そういう本が自分の本棚に何冊かあってもいいだろう。

個人的に、その一冊が中村雄二郎『知の百家言』(講談社学術文庫、2012年)という本である。

これまでそのようにしてつき合ってきた本であり、そして十二分に機能してくれた本でもある。

使い方としては至極単純。先ほど述べたとおり、見出しのことばだけを拾っていくわけである。

たとえば今日はこんな感じでチョイスしてみた。

 

わしには道などないのだ。だから目はいらぬ。目が見えたときにはよくつまずいたものだ」(シェイクスピア

年をとった人が拠り所にしている独断的な考えは、その年になるともうおそらく、不可欠な支えになっている場合が多い」(ジンメル

もし造物主に非難すべきところがあるなら、彼があまりに無造作に生命を創り、あまりに無造作に生命を壊す点であろう」(魯迅

我々の体の中には、自分のことに関しては無感覚で、目も見えず耳も聞こえない虫が一匹住んでいるんだ」(プルタルコス

求める目的とは反対の結果を生む努力がある。一方、たとえうまくいかないことがあっても、いつも有益な努力もある」(ヴェーユ

人間のあらゆる過ちは、すべて焦りからきている。周到さをそうそうに放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる、性急な焦り」(カフカ

自分に固有の時間を、他人の時間に帰属させないことに慣れること。自分に固有の時間を、事物の時間に帰属させないことに慣れること」(バシュラール

一本の草を熟視し、一本の大樹に見入り給え。そして、それは虚空の空中に注ぐ、屹立する一条の河にほかならぬことを、心に思い見よ」(ヴァレリー

 

こうやって選んだことばたちが、現在の精神状態、思考の方向性をそのままのかたちであらわしているかどうかはさておき、少なくとも現在の私的な関心の所在はつかんでいるようには感じられる。

たとえば若い頃だったら、これらのことばよりも高尚というか、高潔というか、もう少し理想や理念のこもったことばを選んでいたような気がするから、やはり歳をとったということなのだろう。

といった具合に、ある種のマインド・セットができるというわけである。

まあ、私事は傍に捨ておくにしても、そのときどきで響いてくることばは当然、人それぞれ、時流や経験によっても変化するものであり、そのときどきの思考の傾向をうっすらとでも透かして、あぶり出して見ようとするのに有用な本ともいえる。

十年以上前の本ではあるが、人間が思考することの根っこの部分はそうそう変わるものでもあるまい。

だから、いつ読んでもときどきの貴重な示唆を含むことは言うまでもないだろう。

各ことばに附された著者の解説も簡素に要点をとらえおり、くどくなくていい。

もちろん、原書へと地続きで自然に誘引してくれるような玩味ある筆致に著者自身の冴えある思考の片鱗もうかがうこともできる。

この本はまた、敷居の高くみえる哲学書・思想書のなかでも良い意味で"中庸"な入門書であるようにも思える。

何事かを深く考えていく前段には、このての本にあるような"思考の助走"(=随想)がかならずあるものであり、この本はその要件を過不足なく点景してくれているように思う。

格言本・金言本のなかでは、群を抜いておすすめの一冊である。

 

◾️ 書誌情報

出版社:講談社 (2012/8/10)

発売日:2012/8/10

言語:日本語

文庫:352ページ

ISBN-10:4062921243

ISBN-13:978-4062921244

 

▼ 目次・所収

学術文庫版まえがき

クンデラ/ドストエフスキー/マルクス・アウレリウス/老子/テイヤール=ド=シャルダン/エピクロス/シオラン/モンテーニュ/空海/シェイクスピア/王陽明/モーツァルト/ラッセル/イグナチウス・デ・ロヨラ/ゲーテ/レヴィナス/チェーホフ/アイソポス/一遍/ジンメル/ホワイトヘッド/タゴール/エマーソン/セネカ/ロダン/ベーコン/クレー/世阿弥/キルケゴール/レオナルド・ダ・ヴィンチ/ベイトソン/バガヴァッド/魯迅/プロティノス/アインシュタイン/エックハルト/明恵/アラン/プルタゴラス/ベルジャーエフ/ラ・ロシュフーコー/ユング/ロレンス/岡倉天心/アミエル/プラトン/ヴェーユ/エリアーデ/オルテガ/デカルト/マホメット/スピノザ/ディドロ/ハイゼンベルク/パス/アシジのフランチェスコ/ベートーヴェン/ファーブル/ニーチェ/鈴木大拙/アーレント/ランボー/ベーメ/フーコー/荀子/ゴーギャン/ウィーナー/ミード/アウグスティヌス/夏目漱石/ヘーゲル/ヒポクラテス/荘子/ダンテ/フランクリン/ブルーノ/フロイト/エラスムス/内村鑑三/ルソー/カフカ/ルター/バシュラール/ボルヘス/司馬遷/ショーペンハウアー/ヴァレリー/カンパネッラ/ドゥルーズ&ガタリ/西田幾多郎/イヨネスコ/朱子/レヴィ=ストロース/リルケ/トルストイ/マキャベリ/ルロア=グーラン/アリストテレス/ベンヤミン/パスカル

あとがき

選書版あとがき

冒頭文出典一覧

事項索引

人名索引